「天気の子」は現代の「キャッチャー・イン・ザ・ライ」なのか?

※公開情報のみをベースにレビューを記載します

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「天気の子」を公開初日午前に観終わった際、これは駄作だと思った。シナリオが雑に感じたからだ。
物語の起伏が単調。登場人物の掘り下げも甘い。そもそも主人公が家出した理由すら曖昧。SF的考証も民俗学的な見解も薄い。

そう思いながら電車に乗ったが、駄作と断定するには引っかかる。
相変わらず素晴らしい作画や背景、声優の好演はもちろんある。が、新海誠監督が描きたかったものは何かを考えることにした。
まずはあらすじから説明する。

本作は「社会から外れた少年と少女が現代東京を生きる姿」を描いている。
舞台は雨が連日振り続ける異常気象の現代東京。
主人公の帆高は離島の高校一年生だが、家出して上京する。生活に困窮しながらも怪しい編集プロダクションに拾われる。
仕事を手伝う最中で出会った、弟と二人暮らしをする陽菜。
彼女には不思議な力があった。

さて、本作は「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の影響を受けているはずだ。
実際に物語の中で帆高は「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を持ち歩いている描写がある。少年が大都会を彷徨う物語でもある。
一方、帆高はホールデンほど孤独でもなく社会や大人に対して辟易していない。

キャッチャー・イン・ザ・ライ」の影響があるとすれば、重要なのはもっと精神的な点だろう。
少年が社会の中で組織や他人との距離を測りながら自分の居場所を規定するのではなく、心を開ける人々と送る日々の中で「いま、ここにいる自分自身の存在」を確認していく過程を大事にしている点だ。社会から外れた少年・少女だからこそ、お互いが存在する瞬間こそが確かなのだ。この純粋で無垢な関係だからこそ、帆高は陽菜が大変なことになるのだが、助けにいく。

なお、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」で有名な一節「子供が集まって遊んでいるライ麦畑で崖に落ちないように見守る」役割が編集プロダクションの2人だろう。という意味では主要人物は皆、ホールトン的な何かを持っている。

しかしながら、本作はホールトンのように家に帰って終わりにはならない。
帆高は困難を突破するために成長する。「いま、ここにいる自分自身」で終わらない。その重要なギミックがPVにも出てくる拳銃である。有名な話だが「心理学的に拳銃は何の象徴か?」が答えでしょう。そして、「拳銃の場面の前後に共通するのは?」も重要です。

という意味では「天気の子」は現代の「キャッチャー・イン・ザ・ライ」では収まらない。登場人物たちの純粋で無垢な関係性と成長、そして選ばれた選択と結果はオリジナルなものだろう。

私は最初に駄作と言いましたが、雑感程度でこれだけの検証ができる。新海誠監督の思いのこもった作品です。

あとは皆さんがこの映画をその目で確かめてください。